特別展示「時間」に寄せて

幼いころ、時間は無限にあるように思えた。
そしていつしか、それは有限のものなのだと気づいた。

過ぎ去っていく「今」は二度と帰ってこないものだと、認識できるようになった。「いま」目に見えている世界も、この気持ちも、いますぐ過去になってしまう。なんて寂しく、切なく、尊いのだろう。そう気付いた時、私はカメラを持とう、と思った。ちょうど私が高校1年生の頃である。

小学生の頃は「写ルンです」の全盛期だった。修学旅行には一人一台の「写ルンです」を持って歩いた。子供時代から、自分の残したいものを自分の意思で残すことができたのは、とても贅沢で、貴重な経験だったと思う。ただ、意識して「今」という時間を残そうと思ったのは、女子高生になってからだ。世間は女子高生ブームの1995年。一人一台の使い捨てカメラになれた子供達は、少しだけ成長し、ハローキティの形をした、簡易カメラを持ち歩いていた。人気キャラクターがフレームになって現像される使い捨てカメラやもあった。

私だけが写真を好きだったわけではない。当時の女子高生たちは、みんなみんな、大好きだったのだ。なぜって、あの頃はプリクラブームで、なんでもない日に、友達とのツーショットを撮るのが当たり前だったのだ。それまで、なんの記念日でもない日に写真を撮ることなどなかったというのに。写真を一緒に撮ることは、友達の証明だった。まるで、いまのセルフィと同じだ。現像して、ペンでデコレーションして、手帳に入れて持ち歩いた。みんながそれぞれ、手帳の中にタイムラインを持っていた。そういう時代だった。

世界が猛スピードで動いていたあの頃、「今取らなければいけない」という衝動を強く覚えたのは、自分を取り巻く世界も、女子高生という3年間も、それらがすべて「終わってしまう時代」だと、理解していたからである。私は、学校に6台のカメラを持ち込んだ。ポラロイド、APSカメラ、コダックの使い捨てカメラ、写ルンです、モノクロフィルムを入れたコンパクトカメラ…。

取るに足らないものを、なんでも、撮った。
黒板、カバン、うわばき、制服、ぬいぐるみ、お弁当。
友達の横顔、イチョウの降り積もる学校裏。
少しさびたテニスコートの階段、友達の指遊び、
黒板に書いたふざけたメッセージ、授業中にまわした手紙。

私は渦中にあってなお、それらを写真に収めることで、終わる時代を客観視していた。そういう楽しみを得て、切なさを甘く噛み締めてながら、いつでも安心していた。なぜなら、写真にさえ残しておけば、いつだって、この美しい記録は、私の頭の中から取り出すことができると、信じていたからだ。

あの時信じたことは、今も私を裏切らない。あの時の写真を見れば、私は、すぐ、あの日に戻ることができる。どんなにピントのあわない稚拙な写真でも、「あの日」の中心に、私はフォーカスを合わせることができる。

写真は、私に、過ぎていった膨大な「時間」を、もう一度与えてくれる、愛おしい存在だ。

私のフィルムカメラの時代は、終わった。時代が変わり、iPhoneを持つようになって、一体何が変わったのか。実は、そう、何も変わっていない。写ルンですが、ポラロイドが、チェキが、あの時の存在全てが、この手のひらのデバイスに変わっただけだ。

だから、私は、日常の、とるに足らない写真を撮る。
食べかけのドーナツ、くたびれたカレンダー、
台所に立つときの気の抜けたワンピース。
サンダルのつま先、コンビニのレシート。

iPhoneの写真はいつでもくだらなくて、簡単過ぎて、楽しくて、愛おしい。
この写真たちはきっと、またいつか私に、この「過ぎ去った時」を、もう一度与えてくれるのだろう。

iPhone写真展/テーマ企画立案
弓月ひろみ

2018-09-03 | Posted in 展示について

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